プロフィール
1997年、同志社大学法学部卒業。京都大学大学院法学研究科博士課程を経て、2002年に同研究科助手。2013年より名古屋大学大学院法学研究科教授。経済法、とりわけ独占禁止法を専門とし、競争環境や情報流通のあり方など、急速に変化するデジタル社会の課題について研究を進めている。総務省情報通信審議会専門委員、電波監理審議会委員、公正取引委員会競争政策研究センター主任研究官など、公的機関の委員等を歴任。
KDDI財団の審査委員として助成・表彰事業の候補者を評価していただいている名古屋大学 大学院法学研究科 林秀弥教授に、ご自身の研究の内容や、KDDI財団の助成・表彰事業への思いや期待などをお話しいただきました。
通信と社会のこれからを見据え、
デジタル時代の「公正なルール」を探る
――先生が研究されている分野は、どのようなものでしょうか?
私の専門は経済法、とりわけ独占禁止法です。簡単に言うと「企業同士が公正に競争するためのルール」を考える分野です。
たとえば、スマートフォンの通信料金やインターネット上のサービスは、企業間の競争によって、より安く、より便利になってきました。それは、企業が切磋琢磨し、よりよいものを提供しようと競うからです。
しかし、その一方で、企業同士が談合して価格をつり上げたり、特定の企業がライバルを排除したりすれば、消費者が本来受けられるはずの競争の恩恵が失われてしまいます。そうした事態を防ぎ、公正な競争環境を維持するための制度やルールのあり方を研究しています。
――その他、情報環境の健全性についても、関心をもっておられるとか。具体的に私たちの生活にどのように関わってくるのでしょうか?
たとえば、検索サービスやSNS、動画配信など、私たちの生活はデジタルプラットフォームと密接に結びついています。知りたいことをすぐに調べられたり、自分の趣味や嗜好に合った情報を受け取れたりするのは、現代社会における大きなメリットです。ただ、便利になる一方で、デジタル空間では「アテンション・エコノミー(関心経済)」と呼ばれる状況が広がっています。
アテンション・エコノミーとは、人々の関心や注目を集めるものが価値あるものとして扱われる経済モデルです。多くの人に見てもらうことが広告収入などにつながるため、プラットフォーム上では、情報の正確性よりも、刺激的で注目を集めやすいことが優先されてしまうという問題が生じています。
これが続けば、健全な「情報環境」を保っていくことが難しくなってしまいます。大気や水といった自然環境が汚染されるように、デジタル空間が誤情報や偽情報などで汚染されていき、情報の質が損なわれ、私たち自身の判断や選択に影響を及ぼす可能性があるのです。
――そのための環境整備がどうなるのかは、気になるところです。
私は、情報法と経済法、とりわけ競争法を融合させた考え方を「情報環境法」と呼んでいるのですが、その視点から情報環境の健全性をどう確保していくか、確かな情報を届けるためにはどうすればよいのかについての研究に取り組んでいるところです。
こうした情報の流通やそのあり方には、より幅広い知見を交えた議論も必要で、現在、5か年計画で憲法学やメディア法、情報哲学などさまざまな分野の研究者と連携しながらプロジェクトを進めています。
健全なメディアのエコシステムを
どう構築するのか?
――ご研究について、今後深く掘り下げていきたいテーマは何でしょうか?
新聞やラジオ、テレビなど、既存のマスメディアのあり方に注目しています。私は放送制度に関する検討会にも関わっていますが、地方のローカル局を中心に、経営の継続が次第に厳しくなってきているという現実があります。
若い世代を中心に新聞・テレビ離れが進み、視聴者の関心はSNSやデジタルプラットフォームへと移ってきています。さらに、放送の場合、それを維持するには設備投資など多くのコストがかかり、その一方で、地方の人口減少が進む中で広告収入も減少傾向が続いています。
また、こうした状況の中で深刻な課題となっているのが、生成AIによる検索・要約サービスです。サービス自体はとても便利ですが、報道機関の記事を勝手に参照・加工して回答を提示する場合があり、利用者が元の記事にアクセスしなくなることが懸念されています。その結果、報道機関の広告・購読収入の基盤が弱まる可能性もあります。
しかし、このまま従来型のメディアを失ってしまってよいのかというと、決してそうではありません。とりわけ災害時や選挙といった重要な局面においては、信頼できる情報源として、既存マスメディアの役割は依然として大きいと考えています。
さまざまな意見に触れられること自体は、デジタル社会の大きな利点です。しかし、アルゴリズムによって自分の関心に近い情報ばかりが届く環境では、知らないうちに特定の情報や価値観に偏ってしまう可能性があります。
自分自身で情報を選び、判断する力をどのように守るのか。そして、社会全体として健全な情報環境をどのようにつくっていくのか。デジタル時代に確かな情報を提供する「健全な情報環境のエコシステム」を制度的にどのように維持していくのかについて、今後さらに研究を深めていきたいと考えています。
法は社会を支え、
人々が幸福を追求するための基盤
――お話をお聞きしていますと、私たちの生活が法律やルールによって守られていることを改めて感じます。
法律というと、どこか遠い存在のように感じられるかもしれませんが、実際には私たちの日常生活のさまざまな場面を支えています。公正な競争が保たれていることで、私たちは多様なサービスの中から選択することができ、よりよいものを適正な価格で利用することができます。また、情報の流通に一定のルールがあることで、安心してサービスを利用できる環境が整えられています。
法律は単に規制を課すものではなく、人々が安心して生活し、よりよい選択ができる社会を支えるための基盤だと考えています。言い換えれば、人々の幸福や社会全体の健全な発展を実現するための仕組みでもあるのです。
デジタル技術の変化に対応しながら、人が安心して暮らせる社会をどのように維持していくのか。その意味でも、法律やルールの役割はこれからますます重要になっていくと考えています。
――KDDI財団の助成・表彰事業の審査委員をされています。審査の際に心掛けていることはありますか?
現在は、AIを活用することで、情報を整理したり文章を作成したりすることが容易になりました。しかし、重要なのは既存の情報をまとめることではなく、「なぜこの問題を明らかにしたいのか」「その研究によって何を変えたいのか」という研究者自身の問題意識です。その人だからこそ着目した課題や、社会をよりよくしたいという強い思いが伝わってくる研究には、大きな魅力を感じます。
また、研究成果が将来どのように社会に役立つのか、どのような課題解決につながるのかという点も丁寧に見ています。
――KDDI財団の活動にどのようなことを期待されますか?ご意見やご要望などがありましたらお聞かせください。
技術の発展には、技術そのものだけでなく、それを社会の中でどのように活用し、どのようなルールを整えていくかという視点も不可欠です。KDDI財団には、これからも情報通信に関する技術研究だけでなく、人文・社会科学を含む幅広い研究を支援し続けてほしいと期待しています。
私自身、審査委員として多様な分野の研究に触れられることに大きなやりがいを感じます。自分の専門分野だけでは得られない視点や、新しい発想に触れることで、多くの刺激を受けています。
異なる分野の研究者が交流し、新たな知見を生み出す場を財団が提供していることにも大きな意義があると感じています。技術系と人文社会系の研究者が互いの視点を持ち寄ることで、より豊かで持続可能な社会の実現につながっていくのではないでしょうか。